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Saturday, November 5, 2022

【新聞に喝!】習体制「一強」「独裁」の「完成」とは? 京都府立大教授・岡本隆司 - 産経ニュース

京都府立大教授 岡本隆司氏

去る10月16日に開幕、22日に閉幕した中国共産党第20回党大会。いささか間遠ながら、落ち着いた時点で部外者の目から振り返ってみるのも悪くあるまい。

田舎住まいの歴史屋は、外(と)つ国の過ぎ去った昔ばかり考えている。あいかわらず浮世に疎い。今回も膨大精細な報道記事をみただけ、それなら、ひたすら拳々服膺(けんけんふくよう)、異議不満がないのかといえば、そういうわけでもない。

「習氏の独裁完成」(産経)、「習氏1強が完成 新体制」(朝日)、「習指導部 側近重用」(毎日)、「『習派』指導部固める」(読売)、「習氏3期目、長期政権入り」(日経)。これらは24日の各紙1面にあった見出しだが、論調・趣旨は筆致に程度の差こそあれ、おおむねどこも同じだった。あまのじゃくの筆者には、横並びが気に入らない。なぜそうなるのか、のほうに興味をそそられる。

奇(く)しくも今年は国交正常化50周年、その昔を振り返ると、中国報道では、日中の平和共存の難しさを指摘する産経など、警戒の声もありながら、ほぼ日中「友好」だった。つまるところ「友好」であってほしいという願望の反映であって、一定の時間をかけてみれば、決して「友好」でなかった事実は明白である。

不動産バブルの崩壊に伴う中国崩壊論が広がったのが、一頃前である。しかし崩壊する兆しは見えてこず、慧眼(けいがん)の向きはつとに、中国崩壊論が崩壊した、と揶揄(やゆ)していた。それでも崩壊論がなかなかやまなかったのは、やはり崩壊を願う輿論(よろん)に影響を受けたのではないか。

不透明感が強い中国に対する報道は、もとより正確を期しがたい。しかしせっかく記事にするなら、その見えにくさもふくめ、彼我の対象・認識を長い目で解析すべきではないか。

「側近」だけで固めた習体制を「独裁」「一強」の「完成」とするのは、たしかにわかりやすい。結果として似たような記事になったのも納得できる。ただそれも、輿論の帰趨(きすう)に棹(さお)さすと見えなくもない。

中国の政体は、独裁こそ史上の通例である。それならいわゆる「完成」以前の「体制」はどうだったのか。なぜ「完成」をめざしたのか。そこを紋切り型の「権力闘争」や「派閥」で説明されても、違和感は残る。

「独裁」「一強」の「完成」という見方・表現に再考の余地はないか。自らの認識・論理を問いなおす姿勢も必要ではないだろうか。溢(あふ)れる関係記事に溺れかかった雑感、杞憂(きゆう)であれかしとあらためて念じている。

【プロフィル】岡本隆司

おかもと・たかし 昭和40年、京都市生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に「『中国』の形成」など。

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