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Monday, March 13, 2023

三愛ビル 解体、建て替え 銀座照らし60年 次の未来へ 「光の円筒 ... - 東京新聞

解体工事が始まる直前の三愛ドリームセンター=先月27日撮影=中央区で

解体工事が始まる直前の三愛ドリームセンター=先月27日撮影=中央区で

 銀座四丁目交差点の一角に立つビル「三愛ドリームセンター」の建て替え工事が今月から始まった。銀座の街のシンボルの一つとして、六十年にわたってそびえた建物が、四年後に完成する新たなビルにバトンを渡そうとしている。

 「セイコーハウス銀座」(和光本館から改称)の時計塔、銀座三越、中央通りの先には東京スカイツリー−。三愛ドリームセンター最上階の九階に上がると、交差点を中心に街並みが広がった。ギャラリーやヘアサロンなどのテナントが営業終了した内部を、ビルを所有する事務機器メーカー「リコー」(大田区)の建て替えプロジェクトチームのリーダー浅香孝司さん(56)が案内してくれた。

9階からは銀座の街並みが一望できる=中央区で

9階からは銀座の街並みが一望できる=中央区で

 三愛ドリームセンターは、現在のリコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創業者、市村清さん(一九〇〇〜六八年)が手がけた。建築家の林昌二さん(一九二八〜二〇一一年)が設計を担当し、一九六三年一月にオープンした。

 リコーや、林氏の業績をまとめた「林昌二の仕事」(二〇〇八年、新建築社)によると、敷地が三百平方メートル弱しかないため「実用価値を追い求めても駄目。宣伝価値のある建物をつくるしかない」と考え、直径十四メートルの円筒形の建物をガラスで覆うというアイデアになった。各階の照明がガラス越しに夜の街に浮かび、「光の円筒」とも呼ばれた。最上部には三菱のマークが飾られ、高さ四十八メートルの斬新な広告塔が銀座の中心地に誕生した。

 「小さくても象徴的なビルを目指したのでしょう。高度成長期に銀座から次の未来を発信する思いがあったと聞いています」と浅香さん。最上部の広告は時代とともに三菱から三愛、コカ・コーラ、サントリー、ボーダフォン、リコーに変わった。

リコーの建て替えプロジェクトチームのリーダー浅香孝司さん

リコーの建て替えプロジェクトチームのリーダー浅香孝司さん

 テナントにとっても出店する意味は大きかった。一九九八年から今年一月まで一、二階でカフェと生花店を営業していたドトールコーヒー(渋谷区)によると、出店を打診された同社の創業者は、テナント料の高さからためらったが、最終的に「広告になれば」と赤字覚悟で出店を決めた。「おかげさまで、お客さまに好評で、店は黒字でした」と広報担当者。銀座の一等地への出店は、従業員の士気や誇りの醸成にもつながったという。

 しかし、六十年を経て建物が老朽化。リコーによると、人通りの多い交差点に面しているため、安全性を考慮し、建て替えを決めた。二年かけて解体し、二〇二七年に新ビルの完成を目指す。浅香さんは「新たな銀座のランドマークになれるよう環境にも配慮した設計の検討を進めています」と説明する。

 慶応大大学院教授で建築家の小林博人さんは「銀座という街は新しいことを、どの街よりも先に取り入れることを旨とし、店のしつらえとして、街に開いた店構えを推奨してきた。ガラスの円筒の形をした三愛ドリームセンターは、銀座ならではの建物のあり方を体現し、銀座で最も象徴的な交差点の角から光をともし続けた」と評する。

 街にとってシンボル的な建物が果たす役割とは何か。小林さんは「住む、働く、訪れる人たちにとって、知らない間に街の風景の記憶の一部となり、心に刻まれる。建物はなくなっても、人々の記憶に長く残り続ける。新しい建物も街の記憶の源泉となってほしい」と期待する。

(左から)オープン当時。最上部には三菱マーク(1963年) 夜の街に浮かび上がる「光の円筒」(2011年) プロジェクションマッピングの様子(2017年)=いずれもリコー提供

(左から)オープン当時。最上部には三菱マーク(1963年) 夜の街に浮かび上がる「光の円筒」(2011年) プロジェクションマッピングの様子(2017年)=いずれもリコー提供

 文・松尾博史 写真・浅井慶

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