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Friday, March 10, 2023

震災・原発事故12年 双葉町の男性 茨城は第2の人生出発点|NHK ... - nhk.or.jp

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の発生から12年。福島第一原発が立地する福島県双葉町から水戸市へ避難し、新たな人生を歩もうとする男性の思いを取材しました。

(取材:NHK水戸放送局 小野田明記者)

【福島から茨城へ】
水戸市で生活する広田正秀さん(57)。会社勤めをしながら、週末は茨城県内の高校生にウエイトリフティングを指導しています。

(広田正秀さん)
「生活の一部というか、毎週土曜日は大体こんな感じです」

広田さんのふるさとは、福島第一原発が立地する福島県双葉町。
原発事故後の2011年3月、広田さんは親戚が住む水戸市に避難しました。

【ふるさとへの一時帰宅】
2月下旬、広田さんは墓参りをするため双葉町に向かいました。移動だけで往復5時間、1日がかりです。

(広田正秀さん)
「地理感が出てきたので、大体ここにくるともうちょっとだなと分かります」

双葉町の中心部を含む一部の地区は、去年8月に避難指示が解除されました。ただ、広田さんの実家やお墓がある地区は、今も立ち入りが規制される帰還困難区域で、墓参りをするにも許可証が必要です。

数か月に1度通う墓参りには、毎回持参するものがあります。

(広田正秀さん)
「水がまだ復旧していない。インフラが全然復旧していないので、いつも水を持ってきて交換している。あと、父親が好きだったものを買ってあげるんです」

原発事故の後、両親と兄は避難先で亡くなりました。埼玉県に避難した父は、広田さんに最後まで双葉町に帰りたいと話していました。

(広田正秀さん)
「長年住んだところだから、両親は双葉町で亡くなりたいっていうのが本音だったと思う。全然知らないところで生活していたので。私たちと違って若くないし、人との接点がないから、大変なところもあったんじゃないかな。こうなったからには後戻りもできないので、そういう人生だったと思うしかないなと思っている」

【双葉町とのつながり】
復興への歩みは遠いふるさと。それでも、つながりは持ち続けたいと願っています。

(広田正秀さん)
「ここでした。ダルマ市です。久しぶりに双葉に帰ってやって、やっぱり感無量でしたね」

今年1月、双葉町の中でも復興が進んでいる地区で地域の祭り、ダルマ市が開催されました。12年ぶりとなるふるさとでの開催で、広田さんは伝統芸能の神楽を披露しました。

この場所に立ち、一緒に神楽を披露した同級生に電話をかける広田さん。来年の神楽について相談していました。

(同級生)
「やれるうちはみなさんと協力してやっていこうかなと思っています」

(広田正秀さん)
「やっぱりそうだ、みんな同じ考えだ。俺も同じなんだよね。やっぱり双葉で」

(広田正秀さん)
「生まれたところですし、少しでも盛り上げる、協力する。それはしたいなと思っています。今年やってそういう思いが強くなりましたね」

【厳しい現実と大きな課題】
その一方、帰還困難区域にある我が家には厳しい現実が立ちはだかっています。いまは数か月に一度帰り、その様子を見守ることしかできません。

(広田正秀さん)
「住まなくてもね、やっぱり最低限のことをしないといけないって思ったんですよね」

広田さんの実家がある帰還困難区域について、政府は2020年代には希望者の帰還を進めるとしています。しかし、原発事故の発生から12年がたち、家は住める状態ではありません。

(広田正秀さん)
「私が家を守るっていっても、そこが大きな課題だと思う。私の代だけじゃない、私の子供もいます。私だけでなくみんなが悩んでいることだと思う」

ほとんどの荷物が処分された家の中に、飾られたままの表彰状がありました。

(広田正秀さん)
「ウエイトリフティングは、福島県の高校体育大会で優勝した」

高校時代にウエイトリフティングと出会った広田さん。福島県の代表として、インターハイや国体にも出場しました。この表彰状は、事故前の大切な思い出の1つです。

(広田正秀さん)
「家を作っているので家ができたら、この表彰状と神棚を持っていきたい」

【茨城での新たな日常】
茨城県での生活で、毎週土曜日の日課となった高校生へのウエイトリフティングの指導。茨城県の関係者に依頼され、自分を受け入れてくれた茨城や競技に恩返しができればと引き受けました。全国大会や県大会で優勝する選手も育ててきました。

(指導を受ける生徒)
「教え方が的確で県でも屈指の指導をしてくれるので、とても力強いと思っています」

(指導を受ける生徒)
「力じゃなくフォームで持ち上げることを教えてくれるところが大きい。大げさにいったら神様みたいな存在です」

生活を一変させた原発事故。今は第2のふるさとと呼ぶ茨城で、新たな日常と目標があります。

(広田正秀さん)
「一生懸命やってる子どもたちをなんとかインターハイに出してあげたい。欲を出すなら全国選抜に選ばれてもらいたいっていうのが、本音です。」

【第2の人生の出発点】
ふるさととのつながりを大切にしながら、茨城で生きていくことを決めた広田さん。

水戸市に新居を建築中で、この春にも完成する予定です。

(広田正秀さん)
「12年っていうけど、あっという間の12年のように私は感じます。茨城は私の第2の人生の出発点。この年でおかしな話かもしれないですけど、そういう感じで生きられればいいかなと思っているんですよね、人生を送れれば」

【取材記者も双葉町出身】
私(小野田)も双葉町の出身で、原発事故で避難を余儀なくされた人々の取材を続けています。
震災当時は茨城大学に通っていたこともあり、両親は原発事故のあと双葉町から水戸市に避難し、現在も水戸市で暮らしています。
双葉町の実家は、年々損傷が大きくなってしまい、去年3月に解体されました。

【双葉町の状況は?】
双葉町では去年8月から一部の地区で人が住めるようになりました。震災前の人口は約7000人の町でしたが、3月9日時点で町に住んでいる人は60人ほどです。
JR双葉駅周辺のエリアでは災害公営住宅や役場の新庁舎などが整備され、新しいまちづくりが進められています。広田さんが神楽を披露したダルマ市もこのエリアで開催されました。

【更地が増加】
この駅周辺を広い範囲でみてみると、いたるところが更地になっています。震災前は、住宅や店が立ち並ぶ通りでしたが地震や動物の被害などを受けた建物は12年がたつなかで損傷も大きくなり、解体するしか選択肢がないというケースがほとんどです。そのため町内では更地が増えています。

【町の約85%は帰還困難区域】
人が住めるようになったエリアは町全体の15%ほどで、多くの地域はまだ広田さんの実家がある地区を含む帰還困難区域です。
そのため、立ち入りを規制するバリケードが設置されたままの場所もあります。

【原発事故の発生から12年 避難した人の思いは?】
ひとそれぞれ事情は違っています。広田さんのように茨城県に家を建てて、「第2のふるさと」として人生を歩んでいる人もいます。
一方で、賃貸住宅などで暮らしながら、双葉町に帰ることを目標に、町の復興の状況を見守っている人もいます。広田さんの両親などのようにふるさとに帰れることを願いながらも果たせず避難先で亡くなった人も多くいます。

そうした中でも双葉町を出た人同士、広田さんと神楽の仲間のように、遠く離れていてもお互いに連絡を取り合っている人も多くいます。今回私もほかの双葉町の人を通じて広田さんと知り合い、取材に応じてくれました。広田さんは、「故郷の現状をぜひ多くの人に知ってほしい」と話していました。

【復興の1つの形】
原発事故により避難をした人たちは、当たり前だと思っていた地域のつながりを失いました。ただ、この12年の間に茨城で新たな友人ができたり、生きがいや自分の居場所を見つけたりした人もいます。

広田さんは実家についてお盆や正月には多くの親族が集まる楽しい場所だったと懐かしんでいましたが、「新たに家を建てることでそうした場所がもう一度できる」と話していました。

広田さんはいま、水戸市内に自宅を建てていますが、住む場所ということ以外に会いたい人と会える、つながりを感じられる、そういった思いも込められていると感じました。

双葉町の復興には長い時間が必要ですが、広田さんのように場所は変わっても大切なものを取り戻したいということも1つの復興の形だと考えます。

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