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Friday, March 6, 2020

「嘉吉(かきつ)の乱」とは何か~将軍・足利義教謀殺【にっぽん歴史夜話25】 - serai.jp

文/砂原浩太朗(小説家)

石清水八幡宮

石清水八幡宮

騒乱の絶えなかった室町時代にあっても、「嘉吉(かきつ)の乱」の衝撃は群を抜いている。なにしろ、時の将軍が白昼堂々、家臣の屋敷で討ち取られるという事件なのだ。幕府衰退の端緒ともなった前代未聞の乱は、いかにして起こったのか。

くじ引きで選ばれた将軍

足利4代将軍・義持は、幕府の全盛期を築いた3代義満の子。嫡子の義量(よしかず)に将軍職をゆずり出家したものの、2年足らずで先立たれる。そののちは将軍空位のまま政務をになってきたが病を得、1428年、43歳で没してしまう。つぎの将軍候補となったのは、すでに出家していた4人の弟たちだった。が、義持が死にのぞんで後継者をさだめようとしなかったため、護持僧(専属の祈祷僧)として信頼厚い醍醐寺の満済(まんさい)から思いがけない提案がなされる。なんと、くじ引きによって跡継ぎを決めようというのだった。

現代のわれわれからすると、いささか乱暴な手段とも感じられるが、幕府内で目立った異論は出なかった。すでに管領(かんれい。家臣筆頭)たちによる合議体制ができあがっており、だれが将軍位についても大きな違いはないと判断したのかもしれない。くじ引きは石清水八幡宮(京都府八幡市)の神前でなされている。神意によって決するかたちを取ることで、満天下の合意を得ようとしたのだろう。

こうして選ばれたのが青蓮院(しょうれんいん。京都市東山区)の門跡(もんぜき。住職)である義円(ぎえん)。還俗して6代将軍・義教(よしのり)となる人物だった。

はじまった専制政治

義教はやはり3代義満の子で、義持の同母弟。年齢は8つ下である。10歳で青蓮院に入り、15歳で得度(出家)した。26歳で天台宗のトップである天台座主の地位につく。八幡宮でのくじ引きで後継者と決まったときには、すでに35歳となっていた。還俗した当初は義宣(よしのぶ)と名乗っていたが、「世をしのぶ」に通じるのを嫌い改名したとされる。

生涯の大半を僧として生きてきた人物であり、選ばれた経緯が経緯だから、家臣たちも彼に将軍としての手腕は期待していなかっただろう。実際、就任当初はおしなべて前代の政治を踏襲し、家臣たちの意見を尊重したという。

が、義教の治世はしだいに専制的な色合いを帯びはじめる。管領の権限を抑制するとともに、有力大名の家督問題へ介入、みずからの意にかなう者を当主の座へつけようとした。このため山名、斯波(しば)といった大族のなかで内紛が生じ、武力衝突までおこって諸家の勢力は次々と削がれることになる。そこまで意図しての振る舞いかどうかはともかく、結果として義教の思いどおりになったというべきだろう。

特筆すべきは、鎌倉公方(くぼう)を滅ぼしたことである。武士の本拠ともいうべき東国をおさめるため、初代尊氏が置いた鎌倉府の長をこう呼んだ。2代将軍の弟にあたる基氏を初代としており、必然的な流れとして京の幕府へ対抗心を燃やすこととなる。当代の持氏は、5代将軍・義量が早世したおり、自分が後継者になりたいと申し出たほどで、天下への野心を隠そうともしていない。当然、義教の就任をこころよく思うわけもなく、新元号である「永享(えいきょう)」の使用を拒否するなど、露骨なまでに反発をしめした。

1438年、持氏の嫡子が元服する際、補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね。上杉謙信の6世代前にあたる)が将軍義教の名から一字をたまわるよう進言する。が、持氏がこれをこばんだため関係が険悪となり、憲実は領国へ去った。持氏が彼を討伐しようとしたことから、幕府と鎌倉公方のいくさに発展する(永享の乱)。やぶれた持氏は自害、鎌倉府は100年におよぶ命脈を絶たれた。ちなみに、憲実の行動は幕府と示し合わせてのものとする見方が有力である。

「万人恐怖」の果てに

鎌倉公方をほろぼしたあとも義教の専制はとどまることなく、1440年には、彼の逆鱗にふれた一色・土岐といった大名が死に追いやられている。当時の皇族がしるした日記には、「万人恐怖」「恐怖千万」「悪将軍」といった表現がならんでおり、まさに悪夢のごとき世というべきだろう。くじ引きを進言した満済は永享の乱に先立ち没しているが(1435年)、このような事態は夢想だにしていなかったに違いない。

永享から嘉吉と改元された1441年6月、播磨(兵庫県)など三国の守護・赤松満祐(みつすけ)が、嫡子・教康(のりやす)とはかって京の邸へ将軍をまねいた。余興の猿楽が演じられ、酒席たけなわというとき、突然数十人の武者が乱入して、義教を討ち取る。48歳の最期だった。満祐らは義教の首級をたずさえ領国へ落ちたが、山名持豊(のち出家して宗全。応仁の乱で西軍の総帥となる)らのひきいる幕府軍に追討され、敗死する。元号をとって、これを「嘉吉の乱」と呼ぶが、義教が満祐から領国を奪い、みずからが寵愛する赤松一族の者へ与えようとしたことが原因であるという。まるで「本能寺の変」怨恨説を思わせるような話だが、有力な異説も出ていないし、追い詰められた満祐が耐えかねて牙を剝いたと見ていいだろう。彼はこのとき69歳。晩年にいたって主殺しの汚名を着ることとなった老武士の面影を想像すると、一抹の哀れさを覚えてしまう。

恐怖政治の果てにいのちを落とした将軍・足利義教。この事件をきっかけに幕府の権威は地に落ち、四半世紀ののち応仁の大乱へとつながってゆく(乱のきっかけとなった8代将軍・義政は義教の子)。将軍権力の拡大を目指した義教が、みずからの死とともに幕府の衰退をまねいたのは皮肉というほかない。

彼のおこなった専制政治は自身の性格によるところも大きかろうが、筆者は将軍位に就いた経緯が影を落としていると思えてならない。くじ引きという異様な手段で選ばれただけに、周囲からは軽んじるような視線も多かったことだろう。その冷たさを振り払い、だれよりも強い将軍たらんとしたのではないか。残忍苛烈と評されることの多い義教だが、その生涯からは、どこか孤独な魂の叫びが感じられるのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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