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Saturday, April 10, 2021

将軍綱吉の側近、柳沢吉保の教養に裏打ちされた和歌の庭、六義園──東京にみつける江戸 第28回 - GQ Japan

この辺りは中国の景勝を表現。

完成まで7年かけた江戸で二指に入る名園が残る

JR駒込駅南側の、レンガ塀に囲まれたおよそ2万8000坪。六義園(りくぎえん)は館林藩士から5代将軍綱吉の側用人になり、最後は15万石余りを拝領する大老格に上りつめた柳沢吉保が自ら設計した庭園だ。名勝のなかでも特に価値が高い特別名勝で、関東地方で指定されているのはほかに、すでに紹介した旧浜離宮庭園と小石川後楽園だけである。

築庭当時に植えられたという吹上松。

吉保が綱吉から、駒込に下屋敷として約4万9000坪の土地を与えられたのは元禄8年(1695)4月のこと。本郷台地上の平坦な土地に、江戸で二指に入ると讃えられた回遊式庭園が完成するまで、それから7年かかっている。その間、高まる権勢を反映して各地から銘木や名石が贈られたことも、名園の誕生に寄与したようだ。

明治維新後、三菱創業者の岩崎弥太郎の手に渡り、昭和13(1938)年に東京市に寄付された。江戸時代は堀に囲まれて藪がめぐっていた外周は、そのときレンガ塀に置き換えられたようだ。ただし、現在のレンガ塀は戦後、文化財指定区域を管理するために築かれ、岩崎家時代の敷地は東西南北にさらに広かった。

標高35mの藤代峠から見下ろした池泉。

『古今和歌集』の序文に和歌の6つの基調として記されている「六義(むくさ)」にその名が由来するように、六義園は吉保の和歌の教養と切っても切り離せない。園内には八十八景、つまり和歌に詠まれた88の景観が散りばめられ、なかでも紀州和歌の浦周辺の景観が多く再現されている。それを念頭に置いて、正門から歩こう。

高さ15mのしだれ桜の左に立つ碑も、六義園と和歌との結びつきを物語る。吉保は霊元上皇に庭の絵図を献上。これに対して上皇は宝永3年(1706)、六義園の「十二境八景」を選び、廷臣たちに各景勝にちなむ和歌を詠ませ、吉保に贈ったのだ。碑の前面には八景の名が、背面には柳沢家の4代保光が荒れていた庭を復旧した際の事績が刻まれている。一大名に対する上皇の異例の応対は、吉保の権勢の反映といえる。

紀の川が表現されている。

その先には大きな池泉が広がる。水面は和歌の浦にたとえられ、池に向かって右が出汐湊、左が玉藻磯。正面に浮かぶ中之島には左に女を表す妹山、右に男を表す背山とよばれる築山がある。もちろん、紀州和歌の浦にも妹背山はある。正面に立つ玉笹石は、「妹背山中に生たる玉ざさの一夜のへだてさもぞ露けき」の「玉さざ」、つまり男女の仲を隔てる笹に由来し、子孫繁栄の願いもこめられているという。

水分石から泉水への流れ。

和歌山と中国が再現されたテーマパーク

池泉を時計回りにめぐると、池にアーチ型の蓬莱島が浮かぶ。また、園内各所には八十八景の名を記した石柱が立っている。頭が三角に尖っていれば作庭当初のもので、頭が平らなら、のちに更新されたものだ。ただし、いまも残るのは32である。南東の角の近くに水分石がある。滝石組の滝壺付近で水の流れを3つに分けているのだ。当初は千川上水の水がここから注ぎ込まれていた。大泉水の海に対し、ここは紀の川の上流が表現されている。玉藻磯の対岸、吹上浜に生える吹上松は、320余年前の築堤当初に植えられたという。

千川上水を取り込んでいた水分石。

東の側面を歩いて北端に近づくと、杜甫、李白の詩に由来するという水香江がある。和歌山から中国に移動である。ここにはかつて上水から引かれた水が流れ、蓮が広がっていたという。水が枯れたいまも情趣が感じられる。庭の北辺に沿って歩くと、岩崎家時代にツツジの幹を柱や梁に使って建てられたつつじ茶屋が現存する。その脇には藩主もその上で座禅を組んだという座禅石が置かれている。

八十八境を伝える石柱のひとつ(しるべのおか)。

北辺の剡渓流(ぜんけいのながれ)は中国の故事に由来する。その南のひときわ高い築山が、紀州藤白峠になぞらえた、35mと文京区内で最も標高が高い藤代峠で、頂上には将軍が座るために置かれたという台座型の石が残る。溶岩も据えられているので、富士山の象徴でもあったのだろう。峠を下って渡る渡月橋のモデルも京都ではなく和歌山だ。元来は土橋だったが、いまはほかの大名屋敷から運ばれた二枚の石で構成されている。

男女の象徴、妹山、背山からなる中の島。

吉保が教養のかぎりを傾けた六義園は、静かな瞑想が求められる場ではない。完成する前年の元禄14年(1701)年4月、綱吉の生母の桂昌院がここを訪れた際は、各所に模擬店を設けて迎え、商品をすべて土産にもたせたという。完成の翌年に綱吉の長女鶴姫が訪れた際も、姫がちょうど庭に入ったところでつがいの鶴を飛ばすなど、凝った趣向で歓待した。まさに社交と饗宴のための庭である。綱吉夫妻は晩年の5年間、ここで起居し、孫の三代信鴻(のぶとき)は引退後、18年にわたってここでリタイア生活を楽しんだ。その後、岩崎家が持ち込んだ石や樹木もあるが、吉保の理想はいまもかなり、その姿をとどめている。

PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家。早稲田大学で日本史を学ぶ(日本史専攻)。小学校高学年から歴史オタクで、中学に入ってからは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、新刊に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)がある。


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