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Saturday, August 22, 2020

完成までわずか1年余 太平洋戦争が生んだ幻の遺構「成増飛行場」とは何か(アーバン ライフ メトロ) - Yahoo!ニュース

街路樹を生かした作りの「光が丘パークタウン」

 練馬区光が丘は戦後、米軍の家族住宅「グラントハイツ」として開発された後に、日本へ返還され、大規模団地「光が丘パークタウン」として造成された住宅地。 【画像】終戦、そして復興――「成増飛行場」跡地の移り変わりを見る(9枚)  都営大江戸線が開通してからというもの、都心に直結している便利な地域になりました。  昭和に開発された地域ならではの、街路樹を生かした道路は整っていて、いまだに生き生きとした雰囲気が漂っている地域です。  イオンのほか専門店街が集結しているショッピングモール「光が丘IMA」(練馬区光が丘)も2020年12月までリニューアル工事が行われていますし、ちょっと古い団地と思いきや、ますます発展しそうな様子です。  しかし、イオンは以前ダイエーだったことや、光が丘テアトル西友という映画館がかつて入居していたこともだいぶ昔の話になってしまいました。

一大ニュータウンの過去の顔

 さて、そんな光が丘。戦後、最初は米軍家族向けとして住宅開発が行われた理由は、日本陸軍の「成増飛行場」があり大規模な土地が確保できたからです。  戦前まで、この地域は板橋区(まだ練馬区はありません)に所属していたものの、人家はまばらな土地でした。  現在、光が丘公園になっているところの北のあたりには「お玉が池」という池がありました。谷あいの水がたまったような池で、そこから流れ出た水は白子川を経て新河岸川へ注いでいました。  今でも、水量は少ないものの池の名残は残っています。  当時は、湧き水地だったのでオタマジャクシがたくさん泳いでいるような比較的大きな池で、周囲は森になっていたといいます。  人家がまばらな地域ですから、昭和初期にはここに火葬場を建設する計画もあったようですが、地域の発展を妨げるとして住民が反対して中止になっています。

土地の運命を変えた戦争の記憶

 この地域が大きく変貌を遂げたのは、太平洋戦争が理由でした。  1942(昭和17)年4月、アメリカ軍は航空母艦から爆撃機を発進させ、初の本土空襲を実行。奇襲攻撃によって首都を空襲されたことに驚いた日本軍は、首都防衛のために新たな飛行場建設を計画します。  そこで適地として選ばれたのが、現在の光が丘一帯でした。  首都防衛という理由だったため、住民たちに対する立ち退きは強制でした。住民に向けての説明会は開かれましたが、実態としては「立ち退きのお達し」だったようです。  当時を知る住民によれば、1943(昭和18)年の6月に板橋区役所から区役所まで実印を持って来るようにとの通知があったといいます。  住民が区役所に行くと、職員がハンコを受け取って土地の明け渡しを認める書類に押印するという、かなり強引なやり方だったといいます。  もちろん強制とはいえ、買収に関わる費用は支払われました。その金額は坪あたり宅地15円、畑10円、水田や山林5円というものです。  当時の物価価値を見てみると、米1升(約1.5kg)が1940(昭和15)年で43銭ですので、現代の感覚では坪あたり数千円ということでしょうか。

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