
「SNSは最後のページに」
「神崎さんを見ていると、自分が情けなくなってしまって、しばらくインスタを見ることができずにいました」 「そんなことはまったくないんですよ」と全力で伝えたくなるコメントが届くことがあります。一瞬一瞬だけが切り取られて見えるSNSのページ。例えば底には濁りのある水も、透き通って見せてしまうのかもしれません。一枚の絵にしても、ひとつの言葉にしても、そこに受け取る側の気持ちの具合が関係してくるのも確かです。いつもならなんでもない一言が、ぐさりと刺さることもあれば、心浮き立つ一言に変わる日もある。なんでもない場面が自分を惨めにさせることもあれば、心地よさをもたらすこともある。 とくに、直接ではないSNSの距離感は、よりそんな自分の感情をよくも悪くもじっくりと味わえてしまう。そう感じています。
わたし自身も、そんな思いをもつことがあります。誰かを見て、何かを見て、自分が惨めになる。自分の存在も、していることも、全てがくだらないものに思えてしまう。そういうときは、決まって体や心が疲れているときで、この感情を確認すると「あ、疲れてるな、わたし」と呼吸を忘れていたことに気がつきます。 年々、自分とひととの間に、境界線が引けるようになりました。持っているものも、考えも、行動も、自分は自分、ひとはひとだと。現実として、平等ではないことも知りました。ですが、疲れていると、この線がぼやける。やっと引くことを覚えたというのに、また引けなくなるのです。
少し前、ちょうどそんなタイミングでした。自分の体力をこえたスケジュールに休みのない頭の回転が重なり、ぷつっと。そんなときは、なにを見ても惨めな気持ちしか滲んでこない。 思い切って、携帯上のSNSアプリを消してみる。このタイミングがくると、いつもすることのひとつです。いつの間にかクセ付いてしまった、指の行き先を奪う。これがなんとも爽快。心が軽くなるのを感じる瞬間で、なにかから解放されたような自由と身軽さを実感するのです。この状態で2、3日。すると「見る心」が落ち着き、穏やかになるのを感じます。ときにはこうして、心が疲れる原因を消す、という手段をとることって大切だな、と思うのです。 そんなことを何度か繰り返すと、だんだんわかってくるSNSと自分の距離感。今では、わたしの携帯上のSNSアプリの居場所は4ページ目です。ついクセで、だけでは指が届かない距離でありながらも、遠すぎない。欲しい情報や大切なひとたちとのコミュニケーションはとりながらも近すぎない。そんないい距離です。
からの記事と詳細 ( 美容家・神崎恵「誰かを見て、何かを見て、自分が惨めになる。そういうときは…」(with online) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
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