
秋田市出身、オランダ在住のプロダンサーYOSHITAKAが、世界各国を渡り歩き、独自の表現を追い求めてきた異色のダンス人生をつづります。
Dance under the Moon①
マイケル・ジャクソンの衝撃~何かを表現する者になりたい
文・YOSHITAKA
2021年8月13日。日本では迎え盆のこの日、僕はオーストリアの首都ウィーンの南西に位置する山、シュネーベルクにいた。ウィーンに住んでいる弟と一緒に5時間かけて登り、山頂近くの山小屋に泊まった。
夕食後、山小屋の外に置かれたデッキチェアに身を沈めた。稜線を駆け抜ける風に吹かれ、遠くから轟いてくる大気の音に耳を澄ませながら、夜空を見上げた。
暗闇が深くなるにつれ、数え切れないくらいの星たちが空一杯に広がり、鋭く尖った三日月が流れる雲を纏って浮かんでいた。
昔から、夜空に月を見付けると、つい見惚れてしまう。満月でなくても、どんなに欠けていても、そのフォルム、光、月面の模様をいつまでも見続けてしまう。太陽はまぶし過ぎるけれど、月はいつも静かにそれを許してくれる。
今まで世界中、いろいろな場所から同じ月を見上げてきた。いつもふと気が付けば空にそっと浮かんでいて、わずかな時間でも見つめてしまう。そんな時は、過去の全ての自分と今の自分が繋がるような、不思議な感覚にとらわれる。
8月29日、40歳になった。
40歳は僕にとって特別な意味を持っている。この歳になるまでにダンサーとしてものになっていなければ、その道で生きていくことはできないと思って生きてきた。
正直、今の自分がものになっているのかどうか分からない。「自分はものになった!」なんて断言はできない。ただ、そうなれるように、何が自分に必要か一生懸命考え、実行し、一日一日を積み重ね、後悔しないように生きてきた。
この節目に、ここに至った道のりを振り返ることが自分にとって必要な気がした。そしてこれを読んだ人に「こんな人生もあるのか」と、もし何かの参考になることがあればと思い、文章に残すことにした。
友人が貸してくれたビデオ
初めて人前で何かを表現したのは小学生の時だ。小学5年か6年のクラスのお楽しみ会でなぜか無性に何かをしたくなり、友人の島崇を誘って漫才をした。自分で台本を作り、ハリセンなど小道具を作って何度も練習した。それを披露した時、みんなが笑い、楽しんでくれたのがとても嬉しかった。
中学3年の時、体育の授業で柔道か表現ダンスを選択することになった。柔道を選ぶつもりでいたら、ある友人が唐突に「一緒にダンスをやらないか」と言ってきた。
「最近これにハマっている。とにかく1回見てみろ」と貸してくれたビデオに映っていたのがマイケル・ジャクソンだった。
まるで彼の周りだけ重力が違うような、人間離れした不思議な動きとキレ、圧倒的な存在感。人間の体でこんなことができるのかと衝撃を受けた。次の日から、友人たちと教室や体育館で、彼のように踊りたくて夢中で練習した。家の畳の上で靴下を履き、何度もムーンウォークを繰り返した。授業の発表は体育館で行われた。それが初めて人前で踊った体験だった。
今思えば、その時に、自分の体を使って何かを表現するという喜びが、小さな種のように心に植え付けられた気がする。
その後、学校の進路相談を前に、人生で初めて自分の将来を真剣に考える機会を得た。
小さい頃から本を読むことが好きだったのを思い出した。物語の中に入り込んで、いろいろな人生を生き、いろいろな場所に行き、いろいろな人に出会い、沢山の心震える瞬間を体験した。映画も同じように大好きだった。感動する度に、その作品に出会えた喜びを鮮明に感じた。
本や映画で感動した時の記憶と、何かを表現して人に喜んでもらえた時の感覚が重なり、自分が将来進むべき道が見えたような気がした。何かを表現する者となり、人に感動を与えたい。それが僕が出した結論だった。
ダンスを始めるきっかけをくれた友人、瀧森悠生は現在、ドイツのノイアタンツというコンテンポラリーダンスとアートパフォーマンスの劇場でプロダンサー・パフォーマーとして活躍している。
大学受験失敗を転機に
親の許しが得られず、高校から東京に出ることはかなわなかった。しかし高校1年からオーディションを受け、仙台の芸能養成所に入り、毎月秋田から高速バスで通った。学校のダンス同好会にも入り、学校祭で踊ったほか、秋田市内にあったダンススタジオ「スタジオS」にも通った。硬式テニス部にも入っていたので、スタジオに通うのは部活の後だった。
スタジオでは、面白そうだったHip Hopだけを習おうとしたら、代表の長谷川咲子先生に「マイケル・ジャクソンのように踊りたいのならジャズとバレエもやりなさい」と言われ、渋々全てのレッスンを受けた。それがその後のダンス人生に大きな影響を与えた。
高校は進学校だったこともあり、あまり深く考えずに卒業後は東京の大学に行こうと考えていた。しかし、大学入試は5校7学部受けて見事に全て落ちた。
この時の感触は今でもよく覚えている。今まで安全に進んできたレールから突然弾き出され、もうどこにも道がないような絶望感。
半日落ち込んだ後、よくよく考えたら自分が大学に行こうとしていたのは、ダンスで生きられなくなった時の保険のためだったことに気が付いた。頭を切り替え、逃げ道をなくし、ダンス、表現の道以外の選択肢を捨てた。
高校の卒業式も終り、3月半ばになっていたが、まだ入学が間に合う専門学校を探した。最初に電話した学校は手続きがもう締め切られていた。次に電話した学校で「明日面接に来られるなら」と言われ、翌日始発の新幹線で東京へ行った。そして面接を受け、無事4月から入学できることになった。面接を終えたその足で近くの不動産屋に立ち寄り、アパートを決めた。
UK Jazz Danceの激しいステップ
4月、秋田駅前から夜行バスで出発する時、高校の友だち数人が、思いがけず見送りに来てくれた。車外から叫ぶように激励してくれるみんなの声を聞きながら、僕は泣き、バスは走り出した。
入学後、学校から徒歩2分のアパートに住んだお陰で、朝の1限目が始まる5分前に起きても授業に間に合った。昼ごはんも家に帰って食べることで節約できた。そして朝から夜まであらゆる授業を受けた。正規の授業数だけでは全く足りなかったので、聴講の名目でさまざまなダンスジャンル、歌や演技など、他学科、他学年の授業にもどんどん参加した。
1年生の時、2年生向けの授業でBe Bopというダンスを初めて見た。先生のHorieさんが躍るのを見て、その激しいステップに衝撃を受けた。彼は日本にこのダンススタイルを広めた第一人者だった。Jazzをバックミュージックに踊るということ、そしてアンダーグラウンドなスタイルであるために踊っている人があまりいないというのも魅力的に思えた。
本場・イギリスのオリジナルダンサーの秘蔵ビデオを貸してもらい、その超人的なパフォーマンス、強烈なカッコ良さ、流れるように自由に踊る表現に強く心を惹かれた。
僕は、このBe Bopを自分のメインのダンススタイルにしていこうと決めた。イギリスではUK Jazz Danceと呼ばれているのを知ったのは後のことである。
2年間の専門学校を卒業し、その1年後に芸能事務所に所属してテレビや舞台、バックダンサーなどさまざまな仕事をするようになった。
あるミュージカルの仕事をしている時、舞台用に美容室で髪を切ってもらう時間に15分ほど遅刻してしまった。それを事務所に報告しなかったことをとがめられ、次に決まっていた仕事から外されてしまった。それは当時、人気絶頂だったアーティストの大規模な全国ツアーのバックダンサーの仕事で、僕はバイトを全てやめて1年間の予定を空けて準備していた。
それまで気持ち的にもどこか浮かれていたところがあったのだが、大きな仕事が急に無くなってしまい、大学入試に全て落ちた時以来の絶望に襲われた。この時は数日間落ち込んだ。
しかし、僕は何か大きなものを失った時には、それ以上のものを取り返さないと気が済まない性格だ。どうせ1年間、何もすることがないのなら、今あるお金を全て使い、海外へダンスの修行に出て自分を磨こうと思い付いた。行き先は「あの街には特別なパワーがある」と人づてに聞き、自分の目で見てみたいと思っていた場所。ニューヨークである。
YOSHITAKA 1981年秋田市生まれ。本名・鈴木祥高。秋田高校から東京のダンス専門学校に進み、プロのダンサーに。2005年ニューヨークに渡り、黒人音楽の殿堂・アポロシアターのコンテスト「アマチュアナイト」で準優勝2回。世界1周ダンス放浪の旅を経て帰国。SMAPの全国ツアー&海外公演、ケツメイシのPV、氷川きよしの武道館公演などでバックダンサーを務める。12年に渡英、ハイネケンの全世界向けCM、ソニーのブラジルW杯サッカー向けCMになどに出演。一時帰国中の15年10月、秋田県立美術館の主催イベント「まぼろしに舞う」で藤田嗣治が描いた大壁画「秋田の行事」を表現したダンスを発表した。16年末からはオランダを拠点に欧州で活動中。秋田県大潟村応援大使、サッカーJ2ブラウブラッツ秋田公式応援サポーター。
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