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Thursday, April 15, 2021

豊穣な大地を生んだ日本の技術者たち(下) - Nippon.com

1979年、三江平原へ初めて考察団が派遣されてから、竜頭橋ダムが完成するまで22年の歳月が流れた。その間、佐野藤三郎は日本と中国の両政府に粘り強くODAの選定を働き掛け、日本の技術者たちは知識と経験に基づく技術を惜しみなくつぎ込んだ。その結果、三江平原はダムの完成前の90年に比べ、2005年のかんがい面積で55%増、食料生産量は3.3倍増となった。

▶︎豊穣の大地を生んだ日本の技術者たち(上)より続く

ODAに持ち込む詰めの一手

三江平原へ初めて考察団が派遣された翌年の1980年、プロジェクトを政府開発援助(ODA)に持ち込むために、佐野藤三郎が打った次の手は、地質調査技術の移転を目的とした物理探査機器の贈呈だ。中山輝也ら技術者4人が日本から機器を持参し、黒竜江省七台河市にある建設中の桃山ダムで実地訓練をすることになった。 

それまで電気探査が主流だった中国の現場へ、発破を必要とする弾性波探査が導入されるとあって、中国側は行政幹部をはじめ、多くの技術者が集まり、関心の高さを示した。

昼間は技術移転に関わる実技をみっちり行い、夜は両国の技術者同士で食卓を囲む毎日。すっかり打ち解け、仕事はスムーズに運んだ。当初は計画がずさんだと言われた桃山ダムは、技術移転が実を結び、今ではかんがいや治水に役立っている。

技術移転の実地訓練の現場となった桃山ダムの掘削工事(1980年7月、三江平原、撮影:中山氏)
技術移転の実地訓練の現場となった桃山ダムの掘削工事(1980年7月、三江平原、撮影:中山氏)

時を同じくして日本では、国際協力事業団(現・国際協力機構、JICA)が三江平原農業開発総合事業の協議を始めた。黒竜江省宝清県にある竜頭橋かんがい地区だけでも、当時の新潟県の全水田面積(約13万ヘクタール)に匹敵する大事業だ。

そして81年、中国に対する最初のODAとなる「三江平原竜頭橋典型地区農業開発計画」が決定。事業の妥当性を見極める調査が始まり、中山は調査が終わる84年まで、1回につき3カ月を超える長期滞在を何度も経験することになる。

円滑な業務進行を目指し、関係づくりに努める

1981年8月、JICAは農林水産省の技官を団長とする23人の調査団を派遣。宝清県での招待所暮らしが始まった。ダム地点の選定と地質図の作成を担当した中山は、カウンターパートと通訳、運転手の4人1組で業務に当たった。

関係性を高めようと、中山は国営農場から分けてもらったエダマメを塩ゆでにしたり、トウモロコシをしょうゆで香ばしく焼いたりして、日本の食べ方を披露して懇親を深めた。日本の団員はもちろん、中国人にも喜ばれた。

しかし、会議での見解の食い違いや連絡事項の不徹底など、常に問題が起きた。日本への要望が多かった中国に、余計な期待感を与えないよう、不都合であればはっきり断り、あいまいな妥協はしないように心掛けた。価値観の相違によるいら立ちは、国が違うから仕方がないと割り切ると、腹を立てることが減った。カウンターパートにも恵まれ、中山は担当業務を円滑に終えることができた。

常にアブの大群がいたので、防虫網をかぶって行動した。写真中央が中山氏(1981年9月、三江平原、提供:中山氏)
常にアブの大群がいたので、防虫網をかぶって行動した。写真中央が中山氏(1981年9月、三江平原、提供:中山氏)

日本の歴史教科書記述を巡って関係が悪化

1882年3月、中山はJICAの要請でダムサイト比較選定の詰めと、地質調査法の技術移転のために宝清県に向かった。何度も訪れていたので、地元商店の店員とも顔なじみになっていた。ところがその年、日本の歴史教科書記述を巡って外交問題に発展したことをきっかけに、中国では反日キャンペーンが始まった。

それまで親しく話をしていた人たちの態度がよそよそしくなり、中山らを避けるようになった。日本から持ち込んだコピー機で反日のビラを印刷したり、事務室の机にナイフで「日帝」と彫られたりした。

「あれだけ心が通じて、技術的にも協力し合ったことを思うと、とても残念だった。収まるまで我慢して待つしかないと思った」と中山。疲れがたまると帰国が待ち遠しく、毎日、暦を塗りつぶして過ごしたという。

JICAの要請でダム候補地に出向く調査団(白いコートが中山氏)(1982年4月、三江平原、提供:中山氏)
JICAの要請でダム候補地に出向く調査団(白いコートが中山氏)(1982年4月、三江平原、提供:中山氏)

緊張が続いた「冷戦」から一転、雪解けへ

5カ月後の8月、中山は地質の最終報告をまとめるため、三江平原へ向かう。この頃になると、反日の姿勢がむき出しだった中国側の対応に変化が現れた。泊まり込みの調査をする日本人用にトレーラー搭載の移動ハウスを用意し、わざわざハルビンから腕利きのコックを呼び寄せ、日本人好みの料理を用意してくれたのだ。

トレーラーハウスで生活をする中山氏(写真左)(1982年8月、三江平原、提供:中山氏)
トレーラーハウスで生活をする中山氏(写真左)(1982年8月、三江平原、提供:中山氏)

日本より緯度が高くても、大陸の夏は暑かった。昼間は気温が35度を超える日が続くが、大陸性気候のため、夜は冷える。そのうえ乾燥しているので、体調管理が難しく、中山は何度も風邪をひいた。

当時としては珍しい電気冷蔵庫で、麦芽液にアルコールと炭酸ガスを加えたようなビールを冷やし、夕食時に飲むのが楽しみだった。しかし、電力不足で頻繁に発生する停電や暑さで、食料品はすぐに腐る。まもなく中山は腹をこわし、熱を出した。それでも与えられた任務を何とか果たし、宝清県の招待所に戻った。

往診に来た医者に、牛乳瓶ほどの太さの注射器で抗生物質を打ってもらった。しばらくして熱は下がるも、下痢が治まらない。食欲がないところに、出てくる食事は香菜類たっぷりの中華料理。

「あらゆる料理に入っている香菜類のにおいを、体が全く受け付けなかった。今でこそ食べられるようになったが、あの時は本当に苦しかった」。日本から持ち込んだ1日1食のカップ麺だけで、何とかしのいだ。

凍結した竜頭橋ダムサイトの下流(1982年4月、三江平原、撮影:中山氏)
凍結した竜頭橋ダムサイトの下流(1982年4月、三江平原、撮影:中山氏)

その後、三江平原との往来を数回繰り返し、ODA関係で中山が担当した専門分野の調査は全て終わった。

竜頭橋ダム建設に約58億円の円借款が決定

1984年、三江平原プロジェクトの事前調査が終了した。だが、中国政府は沿岸の経済開発を優先し、三江平原を後回しにした。黒竜江省も中央政府への働き掛けをおろそかにし、プロジェクトは停滞。事態を重く見た佐野は、積極的に中央政府と黒竜江省に再開を働き掛け、同時に日本の大蔵省(現財務省)や農林水産省にも足しげく通い、根回しを始めた。

そのかいあって93年、中国がようやく日本政府に「竜頭橋プロジェクト準備段階無償援助願書」を提出。94年12月、日中高級事務レベル協議が開かれ、竜頭橋ダム建設には円借款として約58億円の供与が決まった。プロジェクト遂行の大きな足掛かりを得た。

しかし、佐野はこの8カ月前の3月、東京で行われた土地改良事業功労者表彰で農林水産大臣賞を受賞した後に突然倒れ、帰らぬ人となった。あれほど待ちわびた朗報は、佐野には届かなかった。

念願の竜頭橋ダムが完成

佐野亡き後の1996年、中国の包括的核実験禁止条約(CTBT)加盟を受け、対中国政府開発援助費実務協議が再開。供与案件として「黒竜江省三江平原竜頭橋ダム建設事業計画」(限度額30億円)が決定した。これを受けて竜頭橋ダムは、98年に着工。2002年には制御流域面積1730平方キロメートル、総貯水容量6.15億立方メートルの規模を誇る、黒竜江省の水利建設史上、初めて外資を利用したダムが完成した。

完成前の90年に比べ、三江平原は05年のかんがい面積で55%、食料生産量は3.3倍にそれぞれ増えた。機械化が進み、農民の所得や生活水準も向上。地域経済の発展にもつながった。

工事中の竜頭橋ダム建設予定地(1999年2月、三江平原、撮影:中山氏)
工事中の竜頭橋ダム建設予定地(1999年2月、三江平原、撮影:中山氏)

完成した竜頭橋ダム(2006年5月、三江平原、撮影:中山氏)
完成した竜頭橋ダム(2006年5月、三江平原、撮影:中山氏)

佐野は日中両国の橋渡し役、中山は地質専門の技術者として、プロジェクトの中でそれぞれの役割を果たし、大湿原を豊かな大地に生まれ変わらせた。圃場(ほじょう)整備と併せ、岩手県の篤農家や北海道の育苗技師が黒竜江省に長期間滞在し、現地の農民に冷害に強いジャポニカ米の栽培技術を直接指導してきたことも、食料増産に深く関わっている。

貧しい中国を豊かにするためのプロジェクトに参加できたことは、中山にとって誇りだ。そんな中、ODAによる1981年からの4年間に調査団として参加した51人のうち、すでに過半数が鬼籍に入った。残るメンバーも大半が80代になり、佐野が中心となって積み重ねてきた日中の地域間交流を語り継げる人たちが減りつつある。

中山は、中国政府や三江平原の農民でさえも、世代交代が進み、プロジェクトへの理解が薄れている現状を憂い、これまでの取り組みを自ら書物に残した。今はハルビンか竜頭橋ダムサイトに、両国の交流を記した顕彰記念碑を建立させるべく、関係団体に協力を呼び掛けている。

水を蓄えた竜頭橋ダム(2018年、三江平原、中山氏撮影)
水を蓄えた竜頭橋ダム(2018年、三江平原、中山氏撮影)

民間レベルの技術交流は小さなボール

中山が三江平原に足を踏み入れてから、2021年で42年。プロジェクトに加わった当初、国交が正常化していたとはいえ、周囲には中国への技術協力を好意的に受け止めない人も少なくなかった。それ故に異端児扱いされたり、取引先からは冷たい態度を取られたりすることもあった。

社長が長期にわたって不在になることに、中山自身が最も不安を感じていた。それでもプロジェクトへの参加を決めたのは、広い大陸で、誰も経験したことのないことに挑戦しようと思ったからだ。

「文化大革命で疲弊した人々の姿を見て、この人たちの暮らしを何とかしたかった。中国に対して贖罪(しょくざい)の気持ちもあったが、それは私だけでなく、プロジェクトに関わった日本人が同じ気持ちだったと思う。慣れない土地での業務は楽ではなかったが、佐野さんの献身的なご苦労に比べたら、私の体験は些細(ささい)なものだった」と思い返す。

中山輝也氏
中山輝也氏

中山は現在、公益財団法人新潟県国際交流協会とNPO法人新潟県対外科学技術交流協会のそれぞれ理事長を務める。日中関係が悪化する中、国家レベルの交流について、中山は二つのサッカーボールに例えて説明する。

「サッカーボールを二つ並べると、間にはどうしても大きな隙間ができる。この空隙を埋めるためには、小さなボールが必要だ。地域間、自治体、民間の交流が小さなボールで、これが国家間の隙間を埋める役目を果たしている。日中の交流で実現したプロジェクトが、これからの世界の食料基地づくりの原点になれば」と願う。(敬称略)

コメの収穫が行われている中国の三江平原(2020年秋)共同
コメの収穫が行われている中国の三江平原(2020年秋)共同

バナー写真=ぬかるんだ道で立ち往生する旧ソ連製の四輪駆動車(1981年9月、三江平原、撮影:中山氏)

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