著者:東京理科大学 嘱託教授(非常勤) 有限会社エトス経営研究所 代表取締役 宮永 博史
1980年代、アメリカ企業は日本企業の躍進で苦境に陥りながらも、見事に復活を果たしました。その背景には、技術経営の考え方があります。一方、かつての繁栄を取り戻したい日本企業にとって、いま必要な考え方と行動の原点こそが技術経営といえます。本連載では、6回にわたり技術経営(MOT:Management of Technology)について、具体的な事例を交えて分かりやすく解説していきます。第1回では、そもそも技術経営とは何か、なぜ技術経営が必要なのかについて述べていきます。
1. 技術経営とは何か
技術経営とは、主に製造業がものづくりの過程で培ったノウハウや概念を経営学の立場から体系化したものをいいます。「天下のシリコンバレーで成功するベンチャーの割合は、どれくらいだと思いますか」。スタンフォード大学のビジネススクールで教壇に立つスティーブ・ブランク教授は、学生たちにこう問いかけます。シリコンバレーといえば、アップル社をはじめ、世界的な成功企業が密集している地域として有名です。日本の大企業もシリコンバレーから学ぼうと、こぞって拠点を開設し、人を派遣しています。そのシリコンバレーならば、さぞかし成功確率は高いものと思われます。
ところがブランク教授は、意外にも「ほとんどのベンチャーは失敗する」と告げます。実際に6~7社ほどの起業経験を持ち、今はベンチャーキャピタリストとしても活躍している教授が、データに基づいて語る言葉だけに重みがあります。
では、なぜベンチャーは失敗するのでしょうか。ブランク教授の分析によると、最も大きな原因は、製品開発に失敗したというよりも顧客の創造に失敗したこと、つまり売れると見込んだ製品が売れなかったことにありました。ベンチャーが失敗する要因の、実に9割がこれに当たるというのです。つまり、事業化を成功させる基本方程式は、顧客創造とプロダクト(製品やサービス)創造との掛け算となるのです(図1)。掛け算というのがミソであって、どちらかがゼロであれば、結果はゼロということです。
図1:事業を成功させる方程式
ものであれ、サービスであれ、新しい開発に当たって技術者はとかく顧客の意見を十分に聞くことなく開始しがちです。製品やサービスが出来上がってから顧客に売りに行っても売れません。そこで初めて、「いいものができれば、必ず売れる」という考えが、思い込みであったことに気付かされます。日本企業の技術者には、この傾向が強いのでしょう。そして、ブランク教授自身も、自ら起業した会社で開発した製品が売れなかった失敗経験を告白しています。
一方、ヨーロッパやアメリカの企業はプロダクト開発前に顧客情報を収集します。漠然とヒアリングしても漠然とした答えしか返って来ないので、具体的な製品やサービスのコンセプトを提示した上で顧客のフィードバックを得ます。そこで脈があると判断されれば、開発に進むわけです。いわば、売れない可能性をあらかじめ排除するのです。ところが、せっかく良いコンセプトを創造しても、実際にものができなければ売れません。1980年代のアメリカ企業は、ものづくり品質の問題を抱え、日本企業に対して競争力を失っていきました。このように、図1の方程式は右辺の両方が必要だということを示していることが分かります。日本とアメリカの比較は、ややデフォルメしているとはいうものの、本質を示しています。技術経営をひと言でいえば、自社の偏りを自覚し、成功の基本方程式を実践することなのです。
2. なぜ技術経営が必要なのか
どんなに技術が優れていても、製品やサービスが売れなければ事業の継続はできません。売れないのは、技術者による思い込み開発に原因があることを先に述べました。さらにもう1つ、売れない場合があります。それは、良さが伝えきれていないケースです。
例えば、カシオのGショックは同社を支える柱でありながらも、発売当初はあまり売れませんでした(図2)。ヒットのきっかけとなったのは、アメリカ法人が流したCMでした。Gショックの耐衝撃性を分かりやすく伝えるために、Gショックをアイスホッケーのパックの代わりにスティックでたたくというCMでした。
https://www.youtube.com/watch?v=TNV9LlpYOh4
テレビCMの影響は大きかったといいます。このCMのように、本当に時計が壊れないか検証してほしいという要望が多数寄せられたのでした。そこで、実際にテレビ番組のなかで実験をしたところ、アイスホッケーのパックとして使っても、大型トラックでひいても壊れなかったのです。そこから、消防士や警察官に愛用されるようになり、ヒットに火が付きました。ちなみに、Gショックの開発者である伊部菊雄氏は、アイスホッケーのCMを見て顔面蒼白(そうはく)になったそうです。事前に知っていたら止めていたといいます。このCMは、開発者には想定外の伝え方だったのです。
図2:カシオの柱に育ったGショック
さて、技術経営では情報収集の重要さが強調されます。その一方で、特定顧客の言い分に振り回されないことも重要です。このことを示す2つの事例をご紹介しましょう。
事例1:日本のメーカーでシステム構築を担当するSEのケース
SEの現場は、ITという言葉が放つ華やかな印象とは裏腹に、3Kの極みのようなところがあります。そして、キツイ仕事である割に、給料もそれほど高くありません。システム構築事業とはそういうものだと諦めていた30歳のSEは、あるとき衝撃的な体験をします。
ある地方自治体で、名寄せについて提案要請がありました。名寄せとは、異なるデータベースに登録されている人物をサーチし、同一人物であると判定した場合に同一のIDを付与していく作業です。住民データが納税や社会保険などでバラバラに登録されているため、有効なサービスを迅速に提供できないという問題を解決しようというものです(この事例は10年ほど前のものであるにもかかわらず、コロナ禍の中でいまだに解決していない問題であることが分かりました)。
このSEが所属する企業にも、自治体から提案要請がありました。依頼が来たのが1月、納期が3月半ばと、あまりに無理なスケジュールであったため断ったといいます。どの企業でも不可能だとされていたところ、あるアメリカのベンダがこの依頼を難なく実現してしまったのでした。標準パッケージの威力を、まざまざと見せつけられたのです。
若きSEの衝撃はさらに続きます。この事件があって調べてみると、アメリカにおけるSEの地位は、年収も尊敬の度合いも、医者や弁護士を上回る高さだったのです。この違いはどこから来るのか。彼が、技術経営を学ぼうと目覚めた瞬間でした。
事例2:ある部品メーカーのケース
この会社の顧客は、メカトロニクス技術の粋を集めたといわれる装置を開発するメーカーでした。顧客の開発現場では、優秀な技術者たちが深夜まで働き、時には週末も犠牲にして開発に従事していました。そうした努力もあって、この装置メーカーは、もう1社の日本企業と合わせて8割にものぼる世界シェアを確保するに至ります。
ところがある時、オランダ企業に逆転されてしまい、今ではこの競合企業が市場シェア8割を占めています。部品メーカーの社員は新たな商談を進めるべく、このオランダの装置メーカーを訪問します。日本の装置メーカーの働き方を知っているだけに、オランダの技術者たちも、さぞかしハードな働き方をしているものと想像しながら現地に着きました。すると、状況は全く違っていました。技術者たちは、夕方まだ日の明るいうちに帰宅し、それから自転車に乗って出かけるというのです。この違いはなぜなのだろうと、不思議に思わざるを得ませんでした。
そこには、標準化、あるいはモジュール化という開発方法が関係しています。顧客情報を収集しながらも、それに振り回されずに製品開発をしているのです。言うは易しいものの、実際には困難です。そこをどう実現するかが、技術経営の腕の見せ所なのです。
3. 死の谷を克服する
技術経営でよく語られるキーワードに、死の谷という概念があります。死の谷とは、研究戦略、技術経営、プロジェクトマネジメントなどにおいて、研究開発が、次の段階に発展しない状況やその難関・障壁となっている事柄全般をいいます。いい発明だからといって、売れる製品やサービスができるわけではないことを象徴的に表す言葉です。上で示したエピソードもその一例であり、死の谷はあちこちに存在します。例えば、2002年にアメリカの研究機関NISTから発表された「Between Invention and Innovation」という報告書は、ズバリ死の谷について詳しく分析しています。https://www.nist.gov/system/files/documents/2017/05/09/gcr02-841.pdf
図3は、基礎研究から上市(市場に出されること)するまでのプロセスを示しています。この報告書では、3番目のESTD(Early Stage Technology Development:技術開発の早期段階)で死の谷に落ちやすいと、資金調達面から分析しています。
図3:基礎研究から上市までのリニアモデル
いかがでしたか? 今回は、技術経営の基本的な考え方とその必要性、さらに死の谷について解説しました。死の谷を克服することが、技術経営の第一歩でありゴールでもあります。次回は、死の谷を克服するために情報品質を高めることの重要性を紹介します。お楽しみに!
参考資料:
・Steve Blank(Zilog, MIPS Computerなどの創業者、ベンチャーキャピタリスト、スタンフォード大学教授)Entrepreneurial Thought Leaders, Stanford Technology Venture Programでの講演、2008年10月1日
・日経産業新聞、Gショック生みの親8、2015年5月25日
・Between Invention and Innovation、NIST report、GCR 02-841、2002年11月
からの記事と詳細 ( 技術経営(MOT)とは何か:技術経営(MOT)の基礎知識1 - Tech Note(テックノート) )
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